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                継承の記憶
 

巨大な楠木の真下まで来ると、沢山の蝉がしがみついている。虫取りの網と籠を肩にかけながら、秀一は、意を決して言った。

 

「今日こそは抜けよう!」

「えー、やっぱり嫌だよ、自分一人で行ってよ!」

 

そこは、周囲を濠で囲まれた一廓で、子供が立ち入れない、拒むような、淫靡な雰囲気をかもし出していた。

小さな橋を渡った入り口には、ストリップ小屋があり、通りからも透けたネグリジェのまま、出入りする踊り子たちの姿が、見え隠れする。その先がどうなっているのか、どうしても自分の目で見てみたいのだ。

 

「昨日もそう言って、橋の途中まで来て、逃げ出しただろ!」

「だって、ここは子供が入ったらいけないってお母さんに言われたもん」

 

そう言いながら、賢二は走って逃げ出した。

 

「待てよ!」

「嫌だよ!」

 

こちらを振り向きながら、必死に逃げている賢二を見たとき、秀一も急に心細くなり、後を追うように自転車を置いている所まで走った。

 

「ここまで来るのに・・・何分もかかったのに・・・探検しようって言ったのは、賢ちゃんだろ!」

 

秀一は肩で息しながら、賢二に言った。

 

「やっぱり、怖いし・・・逃げたって、クラスのみんなには、言わないで!」

「言いふらすよ」

「駄目だよ、先生にばれたら、目茶苦茶怒られるんだから!」

「ちぇっ、ヒーローになれたのに」

「もう暗くなってきてるし、帰ろうよ」

 

二人の住んでいる街まで通り、自転車で二〇分程かかる、着いた頃には日が落ちてしまっているかもしれない。

 

「やばいよ、今日も怒られる」

 

賢二が自転車を立ちこぎしながら、スピードを上げはじめた。

 

「そんな飛ばしたら、危ないよ!」

 

大声で先に行く賢二に向かって言うが、母親の拳骨が怖いらしい。秀一は、渋滞し始めた車の列の隙間から、探検できなかった場所を眺め、また自転車をゆっくりとこぎ始めては、また眺めての繰り返しで、一向に進まない。

いつの間にか、立ちこぎしている賢二の姿は、見えなくなっている。

秀一が家に着いた時には、日が落ちかけ、あたりは薄暗くなっていた。自転車を表に停めて、店側から入ると、いつも通り、仕事帰りの大人たちが騒がしい。 秀一の両親は、自分が生まれる前から、酒屋を営んでいて、そのせいで、ほぼ毎日この時間帯になると、店の一角で角打ちが始まる。

 

「ただいま」

「あんた、またこんな遅くまで、遊び呆けて!」

 

今日も母親は、酔っ払いのオヤジたちにイラついているようだ。

 

「夏休みだからいいじゃないか、なあ坊主、何か食うか?」

 

そう言い、酒臭い息を吐きながら、いつものオヤジが、竹串に刺したスルメのつまみを一本くれるのだ。 軽く礼を言って家に上がった。

 

「早く、ご飯食べてしまいな!」

 

店のほうから、母親がいつものように、小上がりに向かって言う。親父は、すでに居間の食卓でナイター中継を見ながら、一杯やっている。いつものように、きつい拳骨をお見舞され、涙目になりながら部屋に入った。酔っ払いのオヤジに貰ったスルメを食べながら、またあの場所の事を考える。

今の自分にとっては、夏休みの宿題より、とても大事なことなのだ。いくら思いをはせても、イメージが湧かず、大きな楠木しか思い出せない。何か、秘密のベールに包まれたものに、好奇心だけが、どんどん膨らんでいく。

明日こそはと思いながら、居間に戻り飯を食べ始めると、親父が、テレビに向かって、上機嫌になっている。王貞治が、満塁ホームランを打ち、三塁ベースを蹴って、ゆっくりと両手を挙げながら、ホームベースに向かっているのが映っていた。

巨人ファンにはたまらない光景だろう。そういえば、あの場所に通いつめてるせいで、他の遊びがご無沙汰になっている。 冷めた感覚で眺めながら頭を擦ると、新たなたんこぶができ始めていた。

 

 

翌日、いつもより早く目が覚め、窓から外を眺めると、野良猫が向かいの塀の上を器用に歩いている。空を見上げると、雲ひとつない水色が広がりはじめていた。 ラジオ体操がある近くの公園には、いつも来ている賢二の姿はなかった。

おそらく、昨日の事でこっ酷く叱られたのかもしれない。 こういう日に賢二の家に遊びにいくと、決まって母親から嫌みを言われるが、たいした事はない、この辺りの風土病みたいなもので、数日するとすぐに風化してしまうのだ。

家に帰ると、母親が、朝早くから店の前を掃除していた。

 

「あんた、また危ない所で、遊んでるんじゃないだろうね!」

「危ない所ってどこ?」

「とぼけたって、賢ちゃんのお母さんから聞いてるんだよ」

 

母親同士のネットワークはあなどれない。

 

「ただ、蝉取りに行っただけだよ」

「あそこは小学生が行ったらいけないって、何回も言ってるだろ」

 

賢二が、すべて白状してしまったようだ。

 

「今度行ったら、また爺さんの所に預けるからね!」

「・・・わかったよ」

 

爺さんの所だけは、勘弁してほしいと思っていた。 元陸軍の軍曹で、戦地で生死の境を経験している爺さんは、秀一にとって一番恐ろしい存在なのだ。 預けられたら最後、人格無視の野営という訓練が待っていて、風呂以外は何日も外で生活する事になる。

 

「分かったら、早く朝飯食べて、宿題しな!」

 

怒られている秀一を見ながら、親父がニヤニヤして手招きをしている。こういう時は決まって、きつい拳骨をされる、昨日と同じ場所に拳骨されたら最悪だった。たんこぶがまだ癒えておらず、頭を擦りながら、渋々近寄った。

 

「おい、秀一、あの場所に入ったか?」

「まだ入ってないよ」

「そうか、よし、お父さんが連れて行ってやる」

「いいよ、お母さんに怒られるし」

「だから、こっそり行くんだよ」

「・・・やっぱり行かない」

「配達のついでがあるから、遠慮するな」

「・・・考えとくよ」

 

願ってもないチャンスと思ったが、父親と行く事で何の心配も要らない分、探検の意味が違ってくるように思えたのだ。珍しい事を言うと思ったが、それより新しいたんこぶができなかった事が、妙に嬉しかった。

しかし、ぼやぼやしていたら、父親と行く破目になりかねない、何か急がないといけない衝動に煽られ、午後から一人であの場所に行く事を決意した。

言われた通り、宿題にしがみついているが、三日前のページから全く進んでいない。すでに昼近くになっていて、辺りの木々から、蝉の声が一段とうるさく感じられる。

縁側に置いてある扇風機が、温風に変わり始めた頃には、完全にやる気をなくしてしまった。

 

「相変わらず進んでないな」

 

宿題をしているふりをしていたが、すぐに見破られたらしい。

 

「午後から、配達に行くけどついてくるか?」

「・・・いいよ、友達と野球するから」

「そうか、昼飯は食っていけよ」

 

この期に及んで机にしがみつく理由はない、後は母親をクリヤーすれば何とかなるのだ。

 

「そうだ、遊びに行くついでに、使いにいってこい」

 

そう言って、親父が封をした茶封筒を秀一に渡した。表書きに名前が書いてある。

 

「・・・・・様」

「これが地図だ、中に伝票が入っているから、ポストに入れずにちゃんと渡してこいよ」

 

そういう使いは日常茶飯事だった。外に出る、いい口実にもなる。

 

「いいか、直接その人に渡すんだぞ」

「そのくらい、わかってるよ」

 

居間に行くと、いつもの昼飯が、ソーメンとおにぎりが、テーブルに並んでいた。 渡された地図を見ると、賢二の家の近くということが分かった。確か、商店が数店舗並んでいるはずだ。地図をポケットに入れ自転車にまたがった。

でかい入道雲が、迫り出してきている。夕立が降るかもしれないと思ったが、まだ暫くは時間がある。大丈夫だろう。しかし、少しタイヤの空気が心許ない、途中、自転車屋で空気を入れて行く事にした。

空気を入れた自転車は軽快で、昨日よりペダルが軽い。たまに行く駄菓子屋の前を通り過ぎて、賢二の家を目指した。そのお使いの場所はすぐに分かった。一階が車庫で、二階が雀荘になっており、目的地は二階のようだ。

自転車を車庫の中に停めて、鉄の階段を駆け上がった。扉は開けっ放しで、近づくにつれ、何やらジャラジャラという音が聞こえてきた。

 

「ごめんください」

 

声をかけても、返事が無い。それよりか興味がないという感じだ。玄関には靴が乱雑に脱ぎ捨ててある。奥には肌着のままのおっさん達が、テーブルを囲んで何かやっていた。

 

「ごめんください」

 

もう一回、少し大きめの声で言った。後ろ向きに座っていたおっさんが、おもむろに振り向き、こっちをジロリと睨んできた。しかめっ面にくわえ煙草で人相が悪い、思わず立ちすくんでしまう。

 

「おーい、お客さん」

 

子供には興味がないのだろう、すぐにそのおっさんは、しゃがれた図太い声で言った。

 

「はい、はーい」

 

奥から年寄りの婆さんが出てきた、秀一の祖母くらいの年齢だろうか、意外と背筋はしゃきっとしている。

 

「何だい、ぼっちゃん?」

「あの、お使いで来たんですけど・・・」

 

そう言いながら、親父から預かった茶封筒をその婆さんに見せた。

 

「あー、その人は、今日はまだ来てないねえ、あんた、酒屋のぼっちゃんだろう、伝票かい?よかったら、渡しとこうか?」

「いえ、直接渡すように言われたので・・・」

 

一瞬、婆さんに御願いしようかと思ったが、やめる事にした。

 

「そうかい、どうしようかねえ」

「誰だって!」

 

さっきのおっさんが、面倒臭そうに言っている。

 

「・・・・さん、だって」

「今の時間だったら、この先の喫茶店にいるんじゃねえか」

「あー、いつものあそこかい、ぼっちゃん、自転車だったらすぐ近くだよ」

「あの・・・教えてもらえますか」

 

その婆さんは快く教えてくれ、その上、オロナミンCまでくれたのだ。

 

「えらいねえ、気を付けて行くんだよ」

「ありがとうございます」

 

秀一は、婆さんに礼を言って、階段を駆け下りた。さっきは気付かなかったが、そのオッサンの背中には汗で滲んで何やら模様が見えていた。テレビで見たことがある。生まれて初めて刺青らしきものを見たのだ。おまけにそのオッサンに、伝言まで頼まれてしまった。

「昨日の負けは早く払えよ」だったと思う。教えてもらった方向に、かなり自転車を走らせるが、一向にそれらしき店が見当たらなかった。だいぶ行き過ぎたのかもしれない、見慣れない町並みが、帰省本能をくすぐってくる。引き返すかどうか迷っているうちに、小さい駄菓子屋を見つけると、秀一は、休憩する傍ら、もう一回婆さんの道案内を整理する事にした。

喉が渇いている事に気付いたが、貰ったオロナミンCはすでに温くなっている。ポケットから、親父から駄賃として貰った五十円を取り出し、店でスマックを買った。此処の駄菓子屋も居眠りしながら店番していているのは、婆さんだった。

 

「見慣れない坊やだねえ、この辺かい?」

「いや、お使いで来ていて」

「そうかい、えらいねえ」

 

ちょうど良かった、秀一はこの婆さんに喫茶店の場所を聞いてみる事にした。

 

「あー、そこは、もうちょっと先の魚屋の角を曲がった所だよ」

 

快く教えてくれたが、少し不安になってきた。雀荘の婆さんは、魚屋とかは言っていなかった気がするのだ。スマックを飲み干して表にでると、秀一と同年代の悪ガキが集まってきている。

 

「なんだこいつ見慣れないやつ」

 

黄色いランニングシャツが張り付いている太った奴が言い出した。

 

「ほんとだ、お前どっからきたんだ?」

 

秀一を中心に、数人が集まりだした。非常にまずい展開だ、面倒臭い事になりかけている。無視して行くしかない、黙ってそいつらの脇をすり抜けて自転車の方に行くと、後からゾロゾロと着いて来だした。

 

「何とか言えよ!」

「お前、よそもんだろ!」

「この店に、よそもんは来んなよ!」

 

次から次へ罵声が飛んでくる、無視し続けてる秀一に、痺れを切らした数人が、小走りで先回りし、囲まれる形になってしまった。益々まずい展開だ、自分の街でもよく目にする光景で、このままでは小突き回される。自転車にまたがると、一人がニヤつきながら、ハンドルを握って放そうとしない。秀一は、とっさに籠に入っていたオロナミンCを掴んだ。

 

「これ、やるよ」

「え?」

 

意表を付かれたのか、そいつはハンドルから一瞬手を放したのだ。チャンスだった。秀一はそのオロナミンCのキャップのついた先をそいつの鳩尾に思いっきり突き刺した。

 

「痛ってー」

 

突然の事にそいつは、鳩尾を手で押さえながら塞ぎ込んだ。

 

「バカ、アホ」

 

そう言い放ちながら、自転車を立ち漕ぎして逃げ始めた。後ろを振り向くと、数人が突然の事で茫然としているのが見えたが、同時に走って、自分の自転車を取りにいっているのも見えたのだ。追われるに違いない、秀一は知らない狭い路地を適当に曲がりながら、自転車でひたすら逃げ続けた。

どの位、逃げ続けただろうか、まったく時間も場所も検討がつかない。さっきの駄菓子屋から、だいぶ離れてしまった事は理解していたが、元に戻る事は、至難の技のように思えた。更に、さっきの悪ガキグループに遭遇しないとも限らない。とにかく、お使いを早く済ませて、この見知らぬ街から抜け出さないといけなかった。また誰かに喫茶店の場所を聞かなくてはならない、あたりを見渡すと、ちょっと先に少し大きい道に出れそうな雰囲気があった。

秀一は追手を警戒するように、注意深く進んで行く、すると偶然だろうか、建物の軒先の赤いテントに、探している喫茶店の名前が書いてあるのだ。先には魚屋らしき店も見えた。どうやら逃げているうちに、駄菓子屋の近くまで迷い込んだらしい。不安な気持ちが吹き飛び、軒先に自転車を停めたが、追手の事を思い出した。一応、店の建物とブロック塀の隙間に、通りから見えないよう自転車を停める事にした。

喫茶店に入ると、クーラーが効いていて一気に汗が引いていく。

 

「いらっしゃい」

 

カウンターに小奇麗な女の人が立っている。母親より少し若いような気がした。

 

「あの、・・・さんいますか?」

 

店を見渡しながら言ってみたが、店内には客がいなかった。

 

「今日はまだ来てないけど、どうしたの?まさか息子さん?」

「いえ、お父さんに、お使い頼まれて・・・」

 

そう言いながら、茶封筒をその女性に見せた。

 

「あー、あそこの酒屋さん、でも、ずいぶん遠くまで来ちゃって、感心ね」

 

秀一はがっかりした。此処まで来て本人に会えないのだ。気持ちの限界が近づいている。

 

「どうしようか、私が預かって、その人に渡しとこうか?」

 

そうしようと茶封筒を持った手を伸ばしはじめたが、自分では意図していない言葉を発してしまった。

 

「今日はもう来ないんですか?」

「ほとんど毎日来てるんだけど・・・ひょっとしたら、事務所にいるかもしれないから、電話してあげるわね」

 

そう言って、その女の人は、黒い電話機のダイヤルを回し始めた。

 

「あっ、もしもし、(・・・・)さん、此処に可愛い依頼人が来てるわよ

・・・違う、女じゃないわよ!酒屋さんのお使いだって!

・・・えっ、そっちに来いって、何よ、可哀想じゃない、遠くから来てるのに・・・

そう、わかった、場所を教えればいいのね、相変わらずろくでなしだねあんたは!・・・

そういえば、今日はくるの?・・・そう、こないのね、わかった!じゃあね」

 

秀一には、二人が電話で喧嘩しているように見えて、何か調子が悪かった。

 

「そういえば、喉渇いたでしょ」

 

その女の人はさっきと打って変わって笑顔になっていた。

 

「お使いなんて、あの人より偉いから、コーラでも飲んで行って、その間にお姉さんが、地図書いてあげるから」

 

そう言いながら、冷たい氷が入ったグラスにコーラを注ぎカウンターに置いた。

 

「さあ、此処に座って」

 

カウンターの椅子は秀一のお腹くらいの高さがある、少しよじ登るようにして座った。

冷えたコーラの味は最高で、お礼も言わず、一気に飲み干してしまった。

 

「よっぽど喉が渇いていたみたいね」

「あ、ありがとうございます、ごちそうさま、でした」

 

言っている途中で、思わずゲップがでてしまった。

 

「そんな急がなくてもいいのに」

 

笑いながらその女の人は、空のグラスにまたコーラを注いでくれた。喫茶店の壁に飾ってある鳩時計の針はそろそろ四時になろうとしている、あの場所への探検は諦めるしかなさそうだった。

二杯目のコーラを飲み干す間に、そこまでの地図の説明をしてもらった。女の人は絵が上手くて目印が解りやすかった。

 

「ちょっと遠回りになるけど、大通りは車が多いからね、たぶん、自転車だったら、十五分くらいかな?気を付けてね」

「おねえさん、ありがとうございます、あっ、それと、コーラご馳走さまでした」

「あら、どういたしまして」

 

その女の人は、益々笑顔になって、見送ってくれた。秀一は、少し要領を得たようだ。店の扉を開けようとした時、店の前の通りに、しつこい追手が数名現れていた。思わず店のソファーの陰に隠れた、そろりと顔を上げて外を見ていると、奴らが外で会話している。

 

「いたか?」

「いない!」

「あいつ見つけたら絶対、リンチにしようぜ!」

 

やはり、自転車を塀の裏に隠しておいて正解だった。まだこっちには気付いていないようだ。

 

「どうしたの?」

「いや、ちょっと・・・」

 

女の人が店先にいる数名の奴らの姿を見てわかったようだ。

 

「はーっ、何か、やらかしたみたいね、あの子達、しつこいわよ」

「・・・知ってます」

「私が追っ払ってあげるから、その間に行きなさい」

「あっ、・・・はいっ!」

 

そう言って女の人は表に出て行った。

 

「あんた達!また悪さやってるでしょ!親に言いつけるよ!さっさと帰んなさい!」

「出たー、ヒステリーおばちゃんだ、逃げろー」

 

怒鳴られた奴らは、悪びれる素振りもなく、一目散に散っていった。

 

「まったく、可愛げがない悪ガキだねえ、さっ、今のうちよ!」

「ありがとう、・・・おねえさん!」

 

秀一は、さっきの気の毒なあだ名を思い浮かべながら、店を出て自転車の方へ走った。自転車は無事だった、武器になったオロナミンCも籠に入ったままだ、急いで自転車に乗り、いつもの立ち漕ぎで走り出した。

しばらく走って、ふと振り向くと、おねえさんが、まだ手を振っていた。 最初の目印があった。タバコ屋の先にポストがある、そこを左に曲がって、次の目印を目指せばいい、地図を見ながら、左に曲がった時、追手の一人に見つかってしまった。

しまった、と思ったが、回り道はできそうにない、全速力でそいつに向かっていった。

 

「いたぞー!」

 

大声で叫んでいる。どうやら、分かれて秀一を探しているようだ。

 

「おーい!こっちだー!」

 

近づいてみて分かったが、叫んでいるのは、鳩尾にオロナミンCをお見舞いした奴だった。追手が増えるとまた面倒な事になる。自転車にのったまま、そいつめがけて、突っ込んでいく、寸前でフルブレーキを掛けたが、若干間に合わなかった、そいつの股間に自転車の前輪がめりこんだのだ。

 

「うおーっ」

 

今度は、股間を手で押さえて塞ぎ込んでいる。結果オーライって事にした。

 

「見つけたー!」

 

また、新手の追手に見つかってしまったが、そいつは一人のようだ。塞ぎ込んだ仲間を見て、立ちすくんでいる。自転車に乗り近づいていくと、そいつは慌てながら、自転車に乗り、仲間見捨てて、逃げてしまった。

先手必勝だった。どうやら祖父の訓練が役に立ったのだろう、野営では状況把握の為、色んな事をさせられたのだ。しかし、人数が増えればまた不利な状況になる。早く目的地に到着しなければならない。

ありがたい事に、進行方向を上にした、地図の目印がわかりやすい、茶封筒を渡さないといけない場所には、少し怒った表情の女の子の絵が書かれていて、「ココよ!」と指差されている。目印はあと二つだった。次の目印である、少し大きめのスーパーマーケットの前を通過して、二つ目の路地を右折し、その先の郵便局付近がゴールだった。

気付かなかったが、かなり雲行が怪しくなってきている、夕立がきそうだ。そう、思った矢先、かなり大粒の雨が降り出してきて、郵便局に着いたころには、ずぶ濡れになっていた。

濡れないように背中に挟めた茶封筒が少し濡れているが、何とか大丈夫のようだ。郵便局で雨宿りしようと思ったが、目的地入り口の小道の上には、長い屋根が続いているのが見えた。ゴールは目の前だ、屋根の下まで自転車を押して走った。

茶封筒は何とか無事だ、やれやれと思いながら、地図を広げると、一番大事な所が滲んで見えなくなっている。気付かなかったといえ、最悪だ。泣きそうな気持ちを抑えながら、自転車を押して、小さなアーケードを歩き出した。左右には小さな商店がひしめき合うように並んでいる。自分の街では見ない風景だった。

すれ違う大人たちが、秀一を忌々しい感じで見下ろし、何か巨大に見えてくる。もう一回地図を開いた、この通路は曲がりくねっていて、全部繋がっているようだが、肝心なゴールの目印が滲んでいた。

女の子の絵が指す「ココよ!」は無常にも消えている。

 

「どうすんだよ」

 

つぶやいてみるが、聞いてくれそうな人はいない。野良猫までも秀一を避けているように見えた。

 

「おい、小僧!」

 

背後から、いきなり声をかけられた。ビクッとして振り向くと、ステテコ姿に腹巻をしたオッサンが立っていた。

 

「こんな所でなにやってるんだ!」

「あの、お使いで・・・」

「お使い?子供がか?誰の?」

 

ステテコの裾から何やら模様が見えている。今日二人目の刺青だ、人相もかなり悪い。さっきまでの追手がどうでもいいように感じた。

 

「こっちに来い!」

 

捕まったら、何をされるかわからない、恐怖で足がすくみかけている。

 

「おい!聞いてるのか小僧!」

 

その一言で、秀一は自転車を捨てて、走り始めていた。いつもだったら、もっと早く走れるはずだが、恐怖のあまり、夢の中で逃げているようだった。

 

「こら!まて!」

 

振り返ると凄い形相で、オッサンが追いかけて来た。どんどん差が縮まっている。

 

「こらあ!小僧!」

 

後ろからの声が、益々凄みを増して近づいてくる。必死で前だけを見ようとするが、恐怖のほうが勝っていた、曲がりくねった路地は逃げ込もうにも、見たこともない店ばかりだ。通りにも人がいない。また後ろを振り返ったら、もう、すぐ後ろに手を伸ばし、凄い形相で迫っていた。もう、終わりだ、足に力が入らない。

 

「うわっ!」

 

秀一は何かにぶつかってしまった、ぶつかったと思ったが、違う大人に抱え込まれていたのだ。

 

「終わった・・・」

 

何が何だか判らなかったが、秀一は思った。

 

「子供相手に馬鹿な事やってんじゃないよ、お前は!」

「あっ、ダンナ、いえね、迷子と思いまして、お巡りに連れて行こうとしたら、いきなり逃げやがったんですよ!」

「お前みたいな奴に追いかけられたら、大人でも逃げるに決まってるじゃないか!なあ、秀一!」

「へっ、ダンナの子供さんですかい?」

「馬鹿な事言ってんじゃないよ!俺が使いを頼んだんだよ!」

「すんません、そうとも知らずに早とちりしまして・・・いやあ、悪かったな坊主!」

 

そう言いながら、ステテコのオッサンは、スゴスゴと逆方向に消えていった。

 

「大丈夫か?」

「はい、あの、すいません、ありがとうございました」

 

その大人は茶色のスーツに無精髭を生やし、煙草をくわえていた。

 

「大きくなったな、秀一、今何年生だ?」

 

そういえばさっき、自分の名前を言っていたのを思い出した。もしかしたらこの人が、と思った途端に、涙が溢れ出してきたのだった。

 

「ここまで来させて悪かったな、夕立が降ってきたから心配だって、洋子から、電話貰ったから、そこの入り口まで迎えに行こうとしていたところだったけど、ちょっと遅かった」

 

たぶん、「ヨウコ」というのは、喫茶店のおねえさんだ、そういう名前の店だった。

 

「やっぱり、ずぶ濡れだな」

 

益々、涙が止まらなくなっていた。泣きじゃくる自分をみて、その人は何故か笑っている。

その人の事務所で、秀一はバスタオルに包まってソファーに座っていた。お使いの茶封筒を受け取ったその人は、机の椅子に座り、ゆっくりと揺らしながら、手紙らしきものを眺めている。茶封筒の中身は伝票じゃなかったようだ。

今日は、初めて見る大人ばかりで、何やら夢を見ているような感じになっていた。

 

「ご苦労だったな、秀一」

「・・・いえ」

 

今頃になって、大泣きしてしまった事に、妙に照れ臭くなってきている。事務所に飾ってある時計を見ると、既に五時を回ろうとしていた。

 

「やっぱり、降ってきたわねえ」

 

そう言いながら、洋子さんが傘をたたみ、事務所に入ってきた。

 

「何だ、来たのか」

「何だ、じゃないわよ!心配で来たんじゃない!」

「さっきは、・・・ありがとうございました」

「よかったあ、無事に着いてたのね、でも、ずぶ濡れじゃない!」

「此処まで来れたという事は、秀一は、ただのガキではない」

「何、訳の判らない、言ってんのよ!それよりもこの子が、風邪とかひいたらどうすんのよ!」

「お前が来るだろうと思ったから、待ってたんだよ、何か温かいもんでも作ってやってくれ」

「まったく、自分勝手なんなんだから!」

 

電話の時と、口調は同じに感じたが、今は、何か温かい感じがするのだ。

 

「ちょっと待っててね、秀一君」

 

そう言って、洋子さんは、事務所の奥に鼻歌交じりで入っていった。

 

「それと、電話しといてくれ」

「わかったわよ!」

 

そういう、二人のやり取りが、秀一には、かなり新鮮に感じていた。

 

「お前の親父とは、昔からの友達なんだよ」

「そう・・・なんですか」

「たまに一緒に、酒を飲む、いや、頻繁に、だな、お前にも、大人になったら、そういう仲間が出来るさ」

 

言っている意味があまり分からなかった。

 

「私も秀一君のお父さんに会った事あるわよ、この人と違って、よく働いてて、偉いよね」

「余計な事は言うんじゃないよ!」

「どうぞ、召し上がれ」

 

その人の言う事を遮るように、洋子さんは、ソファーのテーブルにスープを置いてくれた。

 

「そうそう、サンドイッチもあるからね」

「ほう、お前にしては気が利くじゃないか!」

「あらア、あなたにはないのよ!」

 

洋子さんは、バックから、ラップに包んであるサンドイッチを取り出した。

その中には、もう一包みサンドイッチが入っているのが見えたが洋子さんを見上げると笑みを浮かべながら、人差し指を口の前で立てている。

暫く、まったりとした時間が過ぎていった。その人と洋子さんは楽しそうに、会話しているが、内容はよく分からない。夢中でサンドイッチを食べていると、その人の机の上の黒電話が鳴った。

 

「おっと、借金取りかな」

「馬鹿じゃないのこの人」

「こんな大人になったら、駄目よ」

 

洋子さんは、秀一に言ったが、その表情と言葉には、逆の事を言っているように思えた。

 

「そうか、わかった、あと10分くらいだな」

「秀一、もう遅いから、親父が迎えに来るってよ」

 

最後のサンドイッチを食べ終わる頃、その人が電話を切りながら言った。電話の相手は親父のようだった。

 

「・・・ありがとうございます」

「いいさ、何時か気が向いたら、また遊びに来い」

 

表に出ると、いつの間にか、秀一の自転車は、その人の事務所の前に停めてあって、オロナミンCも籠に入ったままだ。あのステテコのオッサンかもしれない。

 

「またね、秀一君」

「あの、おねえさんのサンドイッチ目茶苦茶美味しかったです」

「あらあ、本当に?いつでも食べにおいでね」

「すぐ、調子に乗るんだから、あまり煽てるなよ、秀一、後が大変だ」

 

言っている意味がいまいち判らなかったが、二人とも笑っていた。

 

「・・・ありがとうございました」

 

路地の出口まで、その人と洋子さんは見送ってくれた。親父は既に向かいの路地に迎えに来ていて、その配達車に秀一は自分で自転車を乗せた。親父とその人は、軽く手を翳しながら、笑顔で無言の会話をしている。

別れ際、その人と洋子さんが立っている場所を見た時、秀一は目を擦った。そこは、まさに、あれだけ入るのに躊躇していた「あの場所」の入り口の橋だったのだ。

自分は知らないうちに「あの場所」の中に居たのだった。

それも時間の感覚が麻痺した夢のような時間だった。

そういえば、刺青のオッサンの伝言を、すっかり忘れてしまっている・・・

 

「まあ、いいか・・・」

 

秀一は二人に向かって、つぶやきながら、見えなくなるまで、手を振り続けた。

 

「ちょっとは、ましな顔になったな」

 

親父が秀一を見て言った、どんな、顔をして言ったかは、暗くてよく見えなかった。

それから数日後、秀一が、爺さんの家に預けられたのは、いうまでもない。

 

あれから三十数年経ったが、あの時の思い出は、今も私の胸の奥に強烈に残っている。

あの頃を生きた、とても洒落た、強烈な大人達。

しかし、どうしても、「その人」の名前だけが、今でも思い出せないのだ。

茶封筒の中身の手紙の内容も、「あの場所」に導かれた理由も、そしてあの二人が現在、何処で何をしているのかさえも、見つける手がかりはもうない・・・いや、見つけようとしていない自分がいる。

只、確かな事は、あの人の事務所は、「探偵事務所」だったということだけだ。

今日、私は、誕生日を迎えた。ついに親父が死んだ時の歳と、並んだのだ。その時、私は中学生だった。

聞きたかった事が、山ほどあったと思う。

 

私は、あの頃の大人達の年齢をもう完全に過ぎてしまっている。あのような、洒落た具合の悪い大人になれているのであろうか・・・いや、それは自分が決める事ではない、新しい後継者達が、決める事であろう。

たとえ、名前を知られなくても・・・私は、現在、あの場所のほんの近くに、事務所を構えている。

それは「探偵事務所」だ、あの頃と同じように・・・。

                                   終わり 

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